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ポーランド旅行記

ポーランド旅行(2016年6月18日~25日) 

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 2015年末から大腿骨骨折で入院していた母がやっと4月2日に退院。そろりではありますが、自分でトイレに行く事も出来るまでに回復し、やれやれと思っていたところ4月27日から心不全でまたも入院。ゴールデンウィークは母の見舞いも兼ねて白老へ。思ったよりも元気な様子に少し安心はしましたが、年齢もあり無事退院できるかなと心配もしましたが、5月18日に退院。10日程何事もなく過ぎたのを見計らって6月の旅行を決定しました。インドのビザが7月まで残っていたので、ラダックが第一候補でしたが催行されず、前から行きたかった東欧で連泊も多く直行便のポーランドに決定しました。

第一日目(618日)

 成田集合は2時間30分前の745分。朝一の京浜急行で横浜まで出て530分発のリムジンにYキャットから乗りました。65歳以上は片道2000円です。渋滞も無く90分で第一ターミナル着。参加者は26名で久しぶりの大人数です。夫婦2組、母娘2組、友人同士3組、三人組、70代?の姉妹、一人参加7名。平均年齢が64歳でがっかり。若いつもりでも十分な年齢になっている事を実感しました。出発ロビーに入る前に20,000円を現地通貨620ztズウォティ)に両替しました。1015分発のポーランド航空機は20分遅れで離陸。席は3-3-3の配列で窓際の席を取りましたが、隣が空いていてラッキーでした。2回の食事もまあまあで7時間の時差のあるワルシャワショパン空港に11時間後の1430分に到着しました。ホテルはバスで30分余りで、ワルシャワ西駅が目の前。機内食が夕食替りになっていて夕食は無しだったので、添乗員さんが近くのスーパーまで連れて行ってくれました。その後、一人で電車通りを真っ直ぐワルシャワ・ボヴィシレ駅まで歩いてみました。夕食はスーパーで見つけた寿司。興味があって買ってしまいましたが、シーチキンや沢庵を半殺しのもち米で巻いた感じの海苔巻を美味しいと感じるポーランド人がいるか疑問です。夏至近くのこの時期は9時頃まで明るかったです。

 写真はポーランド空港、機内食、ホテル前の様子、寿司です。

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第二日目(6月19日)

 今日は移動日です。7時45分に集合し出発。席は一人ずつには少し足りなくて前2列は二人掛けになり、毎日変わりました。郊外に出ると麦畑、じゃがいも畑の平原が続き、山らしい高い所もありません。2度トイレ休憩を取りながら4時間30分のドライブでイタリア・ルネサンス様式の美しい建物が並ぶザモシチに到着しました。貴族ヤン・ザモイスキ(1542~1605)が若い頃に感銘を受けたイタリアの景観が忘れられずにイタリア人建築家ベルナルド・モランドに作らせた街です。今では一部しか残っていない堡塁に囲まれた要塞都市でもありました。18世紀の後半からオーストリア、ロシアと支配され第二次大戦中はナチス・ドイツに占領されましたが、破壊されることなく1992年に世界遺産に登録されました。ポーランド風ロールキャベツ(具に米も入っていました)とジャガイモサラダの昼食後600×400mの旧市内を散策しました。散策後は5時間のドライブでクラクフへ。途中、速度違反キップを切られるハプニングもありましたが、19時過ぎにホテルに到着し夕食はチキンでした。

 写真は麦畑やジャガイモ畑が続く大草原、ザモシチの広場、昼食のロールキャベツ、シチュブジェシン門と堡塁、聖トーマス大聖堂です。

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第三日目(620日)

 クラクフでは三連泊です。11世紀中頃から1596年までの約550年間ポーランド王国の首都として栄えました。1939年、ナチス・ドイツに支配されるも壊滅的な打撃を受ける事なく1978年に世界遺産に登録されました。ヴァベェル城や旧市街をはじめ町全体が中世のたたずまいを残しています。残念ながらホテルは郊外で、朝の散歩に出てみましたが何もありませんでした。930分発でクラクフ旧市街地観光です。始めに旧市街の南の外れヴィスワ川に沿って建っている歴代ポーランド王の居城、ヴァベル城を訪ねました。初夏の花々が咲き乱れ、ここで皆で記念写真を撮りました。

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ヴァベル城から1364年にポーランドで最初に創立されたヤギェウォ大学の構内等を通って中央広場に向かいました。中世からそのまま残っている広場に面してレストラン、カフェ、お土産屋さんが連なっています。

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広場の中央には14世紀に建てられ、当時は衣服や布地の交易所だったルネッサンス様式の繊維会館があります。今は一階がお土産物街、2階はクラクフ国立美術館になっています。また1222年に造られたゴシック様式の聖マリア教会も面しています。昔、モンゴル軍がクラクフを襲った際、敵襲を告げるラッパがこの教会の塔の上から吹きならされましたが、モンゴル兵の放った矢がラッパ手ののどを貫き亡くなってしまい、そのことを悔やんで今でも1時間ごとに塔の上からラッパが吹きならされています。夕食に再び中央広場に来た時に見学しました。

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昼食はマッシュルームのスープ、サケのムニエル、ザワークラフト。

 午後はポーランド旅行のメインのアウシュビッツです。アウシュビッツの在るオシフィエンチムクラクフから54kmで収容所は博物館として公開されています。第2次世界大戦が始まりポーランドナチス・ドイツの支配下におかれていた1940年に最初はポーランド人の政治犯を収容するために造られましたが次第にユダヤ人やロマ、ソ連軍捕虜も収容されるようになりました。150万人が亡くなったとされる中、ユダヤ人は110万人。1929年、ニューヨーク株が大暴落したときに台頭した第一党のナチス・ドイツは苦しい生活の中、金融業等で私服を肥やしたユダヤ人を標的にし排斥しようとした事もユダヤ人の死亡が多い原因の一つとも言われています。重労働と貧しい食事で多くの人々が亡くなりました。また、労働力にならない老人、障害者、子供たちと母親は収容後間もなくガス室送りとなりました。被収容者から没収した衣服、トランク、靴、切り取られた髪の毛、義足、義手などが展示された部屋、被収容者が施設に入る時に撮られた3枚組の写真や囚人番号の刺青写真に、収容されてから亡くなるまでの日付けが記入されていました。男女共に丸刈りにされ縞々の衣服をきたうつろな顔の収容者の写真は何とも云われないものでした。

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 第二の収容所ビルケナウはアウシュビッツ強制収容所」から2kmほど離れた所

に有ります。広大な敷地の中に今も木造バラックが少し残っていて、蚕棚のベットで身を寄せ合うように生活していた姿が想像できます。鉄道の引き込み線が敷地内に入りこんでいて、ここで下された被収容者は否応なく労働者と非労働者に分けられました。非労働者はガス室送り、労働者も重労働などの為数か月で亡くなったそうです。

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見学後はクラクフの中央広場まで戻り、餃子に似たピエロギ、トマトのスープ、チーズケーキの夕食を摂りました。

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第4日目(6月21日)

 9時45分発で」郊外にある世界遺産のカルヴァリア・ゼブジドフスカに向かいました。カルヴァリとはポーランド読みでゴルゴダの丘を意味し、ここはカトリックの巡礼地です。

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17世紀初めに地元の領主ミコワイ・ゼブジドフスキによって造られた礼拝堂は当時の姿を留めています。ポーランド人の95%はカソリック教徒でイースターの聖金曜日には10万人もの信者が押し寄せる巡礼地もこの日は僅かの人が来ているのみでした。また、前々のローマ法王ヨハネ・パウロ二世はクラクフ郊外で生まれ度々ここを訪れており、銅像が建っていました。

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昼食はヴィエリチカ岩塩鉱の前のレストランでポークカツレツ。

 ヴィエリチカ岩塩採掘場は1250年頃から1950年代まで稼働していました。1978年に世界遺産に登録され、地下64325mにわたって複雑に入り組んだ採掘場の一部、約2.5㎞が観光客に公開されています。檻のようなエレベーターで地下64mまで下り、ガイドと共に年間を通じて14℃の中、岩塩で作られた彫像やポーランドの伝説や物語のシーン、採掘の様子を再現したのを見ながら2時間ほど歩きました。ハイライトは聖キンガ礼拝堂です。シャンデリアやイエスの磔刑像、祭壇や床も全てが塩の結晶で出来ています。

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見学後クラクフに戻り夕食を摂ってホテルに戻りました。

第五日目(622日)

 810分発でクラクフから2時間30分の巡礼地、チェンストホーヴァーに立ち寄り、さらに4時間のドライブでワルシャワに向かう移動日です。国民の95%以上がカトリック信者であるポーランド人の宗教的聖地、精神的なよりどころとなっているのがチェンストホーヴァーです。1655年にスウェーデン軍が侵略、占領した際もここのヤスナ・グラ僧院が最後まで攻勢に屈しなかったのは、僧院にある聖画“黒いマドンナ”が奇跡をもたらしたからと云われ、守り神として国民の厚い信仰を集めています。

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“黒いマドンナ”は、福音書記者ルカによって描かれたと伝えられており、その後エルサレム、コンスタンティノーブルを経て、1384年にこの僧院に寄進されました。この絵のマリアのほおには1430年に盗賊に付けられた2本の傷があります。僧院は沢山の信者で溢れ、近々ローマ法王が訪れる為の会場の設営準備が進んでいました(7月末にローマ法王が当地を訪ねた記事が新聞に掲載されていました)。ワルシャワに向かう途中のレストランでターキーとボルシチの昼食。ワルシャワ2泊したソフィテル・ヴィクトリアはサスキ公園に面し、旧市街も近い所に在る高級ホテルでした。早めに到着したので夕食までショパンの心臓が祭られている聖十字架教会、大統領官邸などが並ぶ新世界通りから王宮広場、旧王宮まで歩きました。ボタンを押すとショパンの曲が流れるベンチもありました。夕食は王宮広場近くのレストランで郷土料理のビゴス(キャベツとザワークラフトに、肉などを加えて煮込んだ家庭料理)。添乗員さんから独特の風味がありますのでと気がかりなことを云われていましたが、高菜の漬物の炒め物のような味で美味しく食べられました。

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第六日目(623日)

 ポーランド1050年頃に最初の国家としての形が出来上がりましたが、1918年に独立するまで隣国のリトアニア、ロシア、スウェーデンオーストリアとの併合や侵攻により分割されてきました。また、1939年にドイツが侵攻し第二次世界大戦勃発、その後はロシア軍も侵入してきました。1944年にワルシャワ蜂起で国民統一政府発足。1980年頃から労働者のストが多くなりこの中心にいたのが自主管理労働“連帯”のワレサです。1989年に最初の自由選挙が行われ、連帯が政権を勝ち取り社会主義体制は崩壊し、1990年にワレサは大統領に就任しました。

この日の午前中は自由行動。希望者を、追加料金なしで、郊外のジェラソバ・ヴォーラのショパンの生家に案内してくれました。不参加は二人のみで、現在は博物館になっている生家を訪ねました。周りは緑いっぱいの公園で元はスカルベク伯爵家の屋敷跡です。遠足の子供達も来ていました。

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昼食はワルシャワに戻り、不参加の二人をピックアップしてショパンも通ったホノラトカでチキンソテーでした。昼食後、旧市街やワルシャワ市民の憩いの場になっているワジェンキ公園を散策。この公園の夏の風物詩はショパン像の前で行われるショパンコンサートです。

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次に行ったのはショパン博物館です。ショパンの生涯を映像や音などを通して解説しています。彼が作曲した音楽を聴くコーナーも在り、集合時間までゆったりと過ごしました。その後、場所を移してショパンコンサートです。あまり聞いた事の無い曲を大音響で聞いて疲れがどっと出ました。夕食は自由です。一人参加の3人でホテル近くのイタリアンでピッザとスパゲティを食べました。

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 第七日目(624日)

 朝食前にホテルの目の前にあるサスキ公園を散策しました。公園内には無名戦士の墓もあり、丁度、衛兵の交代式をしていました。

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帰国日のこの日は12時まで自由時間で、添乗員さんが希望者をワルシャワのシンボルになっている文化科学宮殿に連れて行ってくれました。37階建の高層ビルで、中には各種研究所、TV局、コンベンションホールなどが入っています。30階の展望台からはワルシャワの街並みが見渡せました

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ここで解散になり、何人かでホテル近くの新世界通りまで歩いて戻り、スーパーやパン屋さんに行ってお土産購入。私はいつも現地のパンを買ってくるのですが、干しイチジクが入ったのが珍しく、とても美味しかったです。12時にホテルを出発してワルシャワショパン空港へ。1520分発のポーランド航空は遅れること無く離陸。10時間25分の飛行で、25845分に無事成田に到着しました。

 

 

 

 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その8)

10月23日(8日目)
 見学も最終日です。ホテル近くの公園では薄暗い中を太極拳等をしている人も沢山見受けられました。8時50分集合でまずはバザールへ。こじんまりしたしたバザールはまだ早いせいか品出しをしているお店が多かったです。旅に出ると地元のパンを御土産にするので今回はウイグルのナン。
焼き立ての薄いのと少し厚みのあるのを購入しました。最後は新疆ウイグル自治区博物

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館です。旧石器時代からの文化財がが展示されており、シルクロードの交易で栄えた町で発掘された出土品は見ごたえがありました。

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また、民族風情陳列室には新疆に住む12の民族の衣装やアクセサリー、住居等が展示されていました。2階は古代ミイラの陳列室があり、1980年にタクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で発掘された3800年前の”楼蘭美女”が横たわっていました。

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14時に飛行場前の天縁酒店で遅めの昼食。16時35分の飛行機で宿泊地の瀋陽に飛びました。瀋陽には22時20分着。

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9日目は6時集合で8時30分の飛行機で成田へ帰って来ました。  
 写真は早朝のバザール、新疆ウイグル自治区博物館、唐三彩の置物、楼蘭美女発掘模様、楼蘭美女、復元像、民族風情陳列室にて、機内食ウルムチ瀋陽)、瀋陽からの帰国便と機内食です。警察官の多さ、セキュリティーの厳しさ、市内および郊外の大団地 と広い道路が印象に残っています。新疆ウイグル自治区は中国の中の異国だと感じました。 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その7)

 

10月22日(7日目)

 9時30分集合でカシュガルの市内見学です。最初にアパク・ホージャ墓を訪れました。16世紀の宗教指導者アパク・ホージャ一族のお墓です。モスクの彩色された柱には特産の柘榴の花、実のモチーフやオアシスの風景が描かれ、水やオアシスへの感謝の気持ちが込められています。

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薔薇園の廟には28歳で清朝乾隆帝に嫁ぎ、36歳で亡くなったウイグル女性香妃の棺が安置されています。アパク・ホージャ墓の外には聖人の近くに埋葬されたいと願った人々の墓地が沢山ありました。これらの墓地には墓標みたいのが有りません。子供の頃から毎週お参りに来るので、あえて名前等を書かなくても墓地の位置を覚えてえてしまっているからとの事です。

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次に新疆最大バザールに行きました。

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ドライフルーツ、カーペット、衣類、日用雑貨等が売られていて、干しぶどう、ソファーのカバーになりそうな布を2m(900円)、お菓子を購入しました。

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バザールの後は中国最大のモスク、エイティガール寺院です。内部には庭園や礼拝堂があり、イスラム教の祭日には2~3万人が訪れます。

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寺院の周りは職人街になっています。ウズベキスタンでも見かけたゆりかごが売っていたり、銅を扱う金物屋、ひょうたん製の民芸品、楽器、帽子屋等を職人さんが作っていました。

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14時に遅めの昼食を旧イギリス領事館で取り飛行場へ。17時10分の飛行機でウルムチに向かいました。窓からは天山山脈が眺められました。

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19時にウルムチに着き、夕食は羊のしゃぶしゃぶ食べ放題、飲み放題です。初日の飛行機の遅れで見学場所がカットされた代わりにこのような贅沢な夕食になりました。地元のワインも美味でした。22時40分ホテル着。

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写真はアパクホージャ墓のモスクの柱、棺を安置している建物、一般人のお墓、街角の帽子売りのおばさん、バザールの布屋さん(手に持っている布を購入)、お菓子屋さん、道端の果物売りのおじさん達、エイティガール寺院、礼拝所(樹ーたんの升目が一人分)、職人街の銅を扱う金物屋さん、肉屋さん、飛行機からの天山山脈、しゃぶしゃぶ食べ放題です。

 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その6)

10月21日(6日目)
 一日かけてパミール高原のカラクリ湖までドライブです。お天気も上々で期待が膨らみました。カシュガルからパキスタンへと続くカラクルムハイウェイ(中パ公路)は13年の歳月をかけて1979年に完成。難工事で500人も犠牲者がでました。11月から4月の冬期は閉鎖します。

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 9時10分に集合。現地ガイドのトルスンジャさんも同乗し、道路工事の影響で12時間程の行程になるとの説明がありました。ポプラの防風林や田園風景を見ながら一時間強走り、中国最西端のウイグル族のウパール村の果物市場で小休止。

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この先からは遊牧民キルギス人の居住区となり、赤みがかった岩山の景色が続き、遠くには雪をかぶった山々も見られるようになって来ました。キルギス人は日本人と顔立ちが似ており、馬やラクダを使い、ヤクや羊を放牧し、テントスタイルの家に住んでいます。
 13時に検問所に着き、下車して一人ずつパスポートを提示して通過しました。この辺りから一昨日降った雪が薄っすらと残っていました。そんな中、自転車の欧米人を見掛けました。又、2016年完成予定の高速道路工事も進んでいますが、完成には程遠い進み具合でした。

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14時50分に標高3200mの水力発電人造湖、ブロン湖に到着して写真タイム。雪をかぶった山々に囲まれた絶景でした。

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 15時30分に最終目的地の標高3600mのカラクリ湖到着。コングール山(7719m)、ムズターグ・アタ(氷の山のお父さん、7546m)に囲まれたカラクリ湖はさらなる絶景で息を飲む美しさでした。ガイドさん曰く”このように山が美しく見える日は極々稀”との事。遅くなった昼食をゲルの中で頂きました。

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同じ道を引き返し返し、夕食の旧ロシア領事館に着いたのは21時45分。ホテル着は22時40分の13時間に渡る行程でした。
 ガイドのトルスンジャさんは流暢な日本語を話します。楼蘭学術研究に来ていた日本人のガイドをしたことから、その方に招かれ(全ての面倒をみてくれたそうです)宇都宮大学で日本語を学びました。自分が学んだ日本語を学校を作って教えたいのだけれども政府からの許可が下りない。でも僕は諦めませんと云ってました。
 写真はホテル前の広場の毛主席の銅像、ウパール村の果物屋、青空トイレ休憩、ゴロン湖、キリギス人集落、カラクリ湖で旅仲間と、ムスターグ・アタ山です。
 

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その5)

10月20日(5日目) 
 8時50分の集合で520㎞先のカシュガルに向け出発しました。30分走り墨玉県に入るとクルミ林が目につきます。砂漠の中に、急に煉瓦工場やセメント工場、集合住宅が現れます。兵団農場もあり、それらの人々の住宅になっているようですけれども住んでいるようには見えませんでした。11時に沿道に柘榴売りが目立つ皮山地区で小休止。柘榴の試食をしました。

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 昼食は葉城地区のチョギリ(パキスタンK2)峰登山賓館。ここはK2を目指す日本の登山隊も利用するホテルで、登山に必要な物資の調達等をするそうです。食事は基本、中華料理です。ジャガイモの千切り炒め、卵とトマトの炒めが何度か出ていました。

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16時にヤルカンド到着。ウイグル音楽”12のムカム”を有名にしたアマニシャハーン王妃の出身地でお墓があり、写真を撮ったり少しの散策時間がありました。

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 ヤルカンドを過ぎると塀や家の壁に描かれた農民画が見かけられました。18世紀から農民達が農閑期の冬に描き始め、1970年代から脚光を浴び始めました。自分達の好きなように農村の日常生活、農作業の風景、伝統楽器、役人の風刺画等を水彩で描いています。カシュガルは大都会でした。免許のいらないバッテリーバイクに中学生も沢山乗っていて、交差点はバイクの洪水でした。

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20時にカシュガルの旧イギリス総領事館で夕食。21時15分ホテル着。今回の旅行、ホテル到着が遅く、何処も宿泊地の様子が分からないままの移動でした。カシュガルは2泊ですので、仙台から参加した男性が街歩きしませんかと皆に声を掛けて下さったので楽しみにしてたのですが、それを知ったガイドさんから治安が余り良くないので止めてほしいと言われ、すごすごと部屋に戻りました。男性は一人で行かれたようです。
 写真は沿道の柘榴売り、昼食をとったチョギリ峰登山賓館、車窓から唯一撮ったロバ車、ヤルカンドのアマニシャハーン王妃の墓、雰囲気のあるおじいさん?、サモサ売り、焼き芋屋さん、カシュガルの街並みです。

タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その4)

10月19日(4日目) 

 集合は9時10分、左側に崑崙山脈が続く現代の西域南道を300キロ先の和田(ホータン)まで行きます。

 途中のオアシスの町、ケリアは以前は新疆で一番大きな国だった所で20万の人口の殆んどがウイグル人。ケリア川のほとりには水田があり、ポプラ並木の街道や漢方薬(ナツメや精力剤となるサヨウ等)を干している景色,綿畑を眺めながらのドライブです。今回の旅行では、ガイドブックには必ず写っているポプラ並木とロバ車の風景を楽しみに来たのですが見かけるのはオート三輪に引かれた荷車のみです。

 14時過ぎにホータンに着き、ラグ麺とシシカバブの昼食。オアシス都市、ホータンはかつては玄奘も訪れた仏教国として繁栄しましたが、カハラン朝の征服によりイスラム、トルコ化が急速に進みウイグル族の割合が高くなりました。くるみの産地でシルク、じゅうたん、玉石が3宝物です。昼食後はアトラスシルク工房見学。アトラス柄はウイグル族の民族衣装柄でシルク製法は東方中国からもたらされました。ポプラ並木で写真ストップの後はホータン博物館へ。石器時代から古代までの近郊のニア遺跡等の発掘品を展示しています。ミイラも数体ありました。その後は郊外に移動し、白玉川で崑崙山脈の雪解け水と共に流れて来る玉石探し(残念ながら見つけられませんでした)とマリカワト古城跡を見学。漢代から唐代にかけて于闐国(ホータンの昔の名、うてんこく)が辺境防衛の為に作った砦であったと考えられているマリカワト古城跡は土漠の中にぽつんぽつんと痕跡があり”兵どもが夢の跡”と云う感じでした。20時過ぎにムズタク大酒店に到着し夕食をとりました。
 写真は放牧されているラクダ、道端の果物屋さん、昼食のレストラン、アトラスシルク工房、ポプラ並木、玉石探し、マリカワト古城跡です。
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タクラマカン砂漠縦断ハイライト(その3)

10月18日(3日目) 

 クチャからタクラマカン砂漠を縦断し宿泊地のニアまで約700キロの大移動日です。2時間毎に青空トイレ休憩。皆、辺境の地の旅行に慣れていましたので問題無しでした。砂漠公路(520キロ)は1989年に油田が発掘された事から1995年に作られました。ゴビ灘(灘はたんと読み、平の意味で土漠)、ベニヤナギ灘(タマリスク、赤っぽい低木)が広がり、黄葉した胡陽(こよう)樹が沢山見られる所もありました。砂を止める為に路の両側にベニヤナギ、サベナツメ、ソソを植林しています。これらの木に給水するために4キロ毎にポンプ小屋が108有り其々に小屋番の出稼ぎの夫婦が住んでいます。8か月働き、一か月の給料は2100元(4000円位)食糧は1週間から10日毎に配給されるそうです。ワンルームの室内は僅かな家財道具だけの質素なものでした。昼食は塔河沈でシシカバブ。ニアには21時過ぎに到着しました。

 今回の新疆ウイグル自治区は中国の最西で一番広い自治区です。1955年に成立し今年60周年です。人口は13民族2300万人。ウイグル、漢族、カザフ、回族、モンゴル、キリギス、ウズベク、タジク、タタール、ロシア、シボ、満州(あと一つ思い出せません)。北疆と南疆は天山山脈によって分かれ、アルカイ、天山、崑崙の三つの山脈があります。北疆は遊牧文化、南疆は農耕文化。年間雨量はクチャで60ミリ、ホータンやニヤは10~20ミリです。西安からローマに通ずるシルクロードは天山北路、天山南路、西域南道と分かれています。胡のつく食物(胡椒、胡麻等)はシルクロードで中国に入ってきたそうです。中国と日本との時差は1時間。中国国内は単一時間にしていますが、ウルムチは北京から2400キロも離れているため、ウルムチ時間(北京時間から-2時間)も併用しています。たしかに朝7時でも真っ暗で9時頃になって明るくなってきました。

 写真はタクラマカン砂漠、道端のナン売り、スイカ、ハミウリ売り、シシカバブ(添乗員のMさんとスルーガイドの胡さんが写っています)、黄葉した胡陽樹とベニヤナギ、タリム砂漠公路ゲート(大型は石油関連トラック以外は通過出来ません。迂回して合流しました。

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